……かり。かりり。さく、ごくん。
穏やかな午後だ。
温かく日が差し込む宿の部屋に、俺とルークの二人だけ。朝の騒動を思えば、なんと平和な時間だろうと思う。
静かな部屋には噛み砕かれるスコーンと、紅茶を飲み下す音だけが鳴っている。
かりり、むしゃ、もぐん、ごく。
いや、やけ食いなのは分かっている。丁度空腹なのもあるし、とそう言い訳しながら、用意された小さな茶菓子は少量ずつながらもみるみる消費されていく。
そう。一個だけのスコーンが少しずつ、だ。
ルークが自分用に淹れたココアマグから顔を上げて、音機関へと手を伸ばした。見かねたノエルが用意してくれた、録音と再生機能の付いた真っ黒な塊。
つるりと表面はなめらかで、ギザギザした網が二つと、上部にいくつものスイッチが飛び出している。
――これが普段なら、心ゆくまでその仕組みを堪能するのに。
ようやっと慣れ始めた手付きで赤いスイッチが押され、ルークが何やら呟いている。俺に分かるのはくぐもった低音ばかり。それから、ゆっくりと二度の操作。
今度は明瞭な声が、スピーカーから聞こえてくる。
ああ全く、面倒臭いことになったもんだ。なるべく顔には出さないようにして頷くと、ルークの左手がくるりとフォークを回して。
新しく砕かれたスコーンの欠片が、巨大な皿に転がった。それは俺が、食べ易いように。
ついついいつもの調子で返してしまった。これも多分、ちーちーした音にしか聞こえないんだろう。
最初に人を指してハムスターと言ったのはアニスだ。
面白がる旦那とティアの熱視線から逃げ出した俺は拾い上げられて、剣ダコの出来たてのひらに避難を余儀なくされた。そして現在に至る。
体が小さくなったことで、どうやら言葉も上手く通じなくなってしまったらしい。聞こえる速度の問題だというので、思い当たったノエルがわざわざ音機関を探してきてくれたという訳だ。
話をするにもいちいちこの塊に録音して、ルーク達からは倍速、俺の声はスローで再生することによってようやく通じる。これがまた最初は楽しかった(扱いに四苦八苦するルークを眺めるのも含めて)んだが、段々と不便さの方が上回ってきた。
何より世話好きな俺が、食事さえも人手を借りなきゃままならない。そうしかもルークに。
この、もやもやとしたもどかしさ。分かって貰えるだろうか?
今ルークはティースプーンに紅茶を継ぎ足そうとしてくれているが、ポットを持つ手がふるふる震えて逆に恐ろしい。
スプーンの方をポットに突っ込めば良いのになぁ。
なんてちびちびスコーンを齧りつつ見ていると、硬直したルークとばちりと目が合った。
――えらく真っ赤な顔して……。
がちがしゃん。ごっとん!
テーブルに思い切り置かれたポット、その振動でかいていた胡坐ごと全身が跳び上がった。
続く椅子が倒れたのだろう轟音。
宿の備品を吹き飛ばし、立ち上がったルークは両手で顔を覆っていた。夕陽色の前髪をくしゃくしゃに巻き込んで、そんなに引っ張ったら痛いだろうに。
「大丈夫か? 火傷でもしたか……!? ルーク、おいっ」
様子がおかしい。音機関を使いたいが、如何せんあの塊は俺が操作するには大き過ぎて。
心配に駆け寄って、机の端でぴいぴい喚いていると。
大音量に押し潰された。そりゃあもう容赦なくぷちっと。
わんわんと震える残響に辛うじて見えたルークは、更に頬を紅潮させていて。ばたんごとんとぶつかりながら、脱兎と部屋から逃げ出してしまった。
恐らく涙目を隠したいだけの照れ隠し、だろう。そんな姿を、やはり愛しいと思いつつ見送って。
ぽつんと窓際のテーブルに取り残された。一人で降りることも、ましてやドアを開けることすら出来ず。
……さくっ。
仕方なく、散らばったスコーンを片付けることにした。
+++
――思えば。いつから俺達は、互いに触れられていなかっただろう。
ルークは空を見上げ、俺はずっと前を見ていた。ルークの歩みが止まらないように、転べばすぐに支えられるように。俺は隣に立って、その足元を見ていた。
いつからだった? 小石がルークの靴をすり抜け、躓きさえしなくなったのは。
俺の手に、縋ることをしなくなったのは。
優しく包まれた手は嬉しかった。柔らかだったはずのそこに、深く根を下ろした硬さに泣いた。
いつからお前は、そんなに広く。
なあ。腕の中が寂しいよ、ルーク。
発行予定の漫画本の準備号として無料配布したSSです。
鉛筆漫画にでもと思ったんですが、スイッチがついつい文章の方に傾きまして^^;
本ではルーク視点がメインの予定です。